残響の街

それは道標

長崎に行く意味①~キリスト教と長崎~

一人旅で長崎に行く。

その目的は何だろうかと考えてみたとき、中高6年間のカトリック教育は大きな影響を与えていると思う。

聖書やミサの方法、そして教会建築を学んだ6年間は私を信者にこそしなかったものの、長崎という街の新たな意味を教えてくれたように思える。

もちろん福山さんが好きだから長崎に行くという面もあるが、何よりその歴史がとても魅力的に感じる。外国からキリスト教がもたらされ広まり、織田信長には重用された一方その影響力を脅威と感じた豊臣秀吉によって多くのクリスチャンが迫害された。ある者は転び(信仰を捨てるという意味)多くの者が殉教した。それの一部が西坂の聖フィリッポ教会の隣にあるこの碑である。

 

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二十六聖人殉教の碑

処刑当時最年少のルドビコ茨木は12歳だった。この碑では26人それぞれが思い思いのポーズをとっているのも興味深い。ちなみに、ローマカトリック教会において聖人と認められることを「列聖」という。カトリック教会においては 神の僕   →   尊者   →   福者   →   聖人 

という流れを経て列聖される。

遠藤周作の「沈黙」をもとにした映画”Silence”も一人で見に行った。拷問のシーンや隠れて信仰を存続させるシーンが本当にリアルでその後訪れた長崎では物の見え方が変わった。

枯松神社には当時の人々がオラショの時十字架代わりに使っていたとされる白い石とそれを並べる台が残る。また、二十六聖人記念館にはマリアを模した仏像や成人それぞれのエピソードも展示されているのでとてもおすすめだ。記念館内のステンドグラスも美しく、夕方や朝など日光が差し込む時間帯に行くのが良いと思う。決して大きな博物館ではないが、展示が充実しているため長めの時間を確保しても余ることはないだろう。

 

「信徒発見」のはるか昔に起こったエピソードが映画「Silence」であるが、これを見た後に信徒発見エピソードを考え直すととても胸に来る。

踏み絵や隣組制度などで多くの隠れキリシタンが処刑された中、信仰を守りつづけた人々がいた。彼らは、「あなたたちの七代後に救いの船が来る」という言葉のみを頼りにたとえ彼らの生きた時代では救われなくても進行を守り継いだのだ。

そして1865年3月、大浦天主堂(通称フランス寺)のプチジャン神父のもとに人々がやってきた。その中の一人、杉本ゆりが言った「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」という言葉は彼らがキリスト教弾圧が始まった時からずっと信仰を守ってきたという証明になった。

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このことはプチジャン神父によってローマ法王に知らされ、当時の法皇フェリペ2世は「東洋の奇跡」と呼び喜んだ。ただ、この後もキリスト教弾圧は続き浦上四番崩れと呼ばれる大きな処刑事件などが起こった。その一方、ヨーロッパに日本のクリスチャン弾圧が伝えられたことでそれへの海外からの批判が高まりキリスト教復興の足掛かりになったという面もある。

ところで大浦天主堂のすぐわきには旧羅典神学校があるがこれは明治政府によるキリスト教禁令廃止を機にプチジャン神父が作った神学校で、設計に携わったド・ロ神父という人物がまた魅力的な人なのだがそれはまた今度。

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最後に、最近見つけたおすすめの長崎動画をおまけに。


Nagasaki Harmony2 (長崎ハーモニー2)

ではまた。

次回はドロ神父について。